昭和4〇年6月6日 夜のご理解


 少年少女部会の発会式がございましたが、んー、小学校三年生以上、中学校生徒、丁度30何名でしたでしょうか、集まってまあ初めてのことでございますもんですから大変、んー、(?)親御さん達が付き添うてみんなお参りになって、お昼は大変ここで賑わいましたのですけれども、私はご理解の中にも申しましたのですけれども、これが、あー、10年経ち20年経ち30年経ち、この中に、次の椛目の中心をなす、椛目をいわば背負って立つ人たちがあると思うたら、何か胸がいっぱいになったのですけれども、本当にこの、いわばこの若葉の人たちが本当にすくすくと、良い信心に育っていってくれる事。願わずにはおられませんでした。 どうぞ、椛目でおかげを頂いておられるみなさんも、これにまた、んー、高校生と、それから、大学生の学生会が近い将来できるでしょう。これで椛目全体にいー、いわば、小はそういう少年少女部会から、上は敬親会。もう本当に充実した、いくつかの会が出来るわけで、組織だった、まあ形の上においては出来るわけでございますから、いよいよその中身が、出来てまいりまして、おあげを頂かなんためにどうでも現在私共がここでおかげを頂いておる、いわゆるお父さんでありお母さんであり、兄さんであり姉さんであり、皆さんが信心とは格のあるものだという事をです、身をもってそれがあの子供だからと言うて、ただ、あの誇大した話ではなく、ね、空なものではなく、本当に私は丁度14年前でしたかねその時分にはまあ、ここで、会も壮年部とか婦人部とか、まあ勿論総代会等もございましたけれども、会がまあ5つ6つしかない時代に、その当時あの、少年少女部会があったんです、もうこれは私の考えとしては、その、リーダー格のしっかりした人たちが出来なければ、と思っておりましたからもういつでも出来るんだという気持ちでおったのです。

 ところが、長男があの学院から帰りましてから、やっぱりあの、若い者なら若い者として、いわゆる幼い信心を育てなければならないといったようなところに着眼したんでしょう、皆さんにまあ呼びかけてこれをやる事になって、えー、親兄弟、まあ、皆さんにもおー人力を得てから今日発会を新たな発会を見たわけですけれども。
 あの時分に少年少女部会、今の、今日リーダーをやっております嘉朗さん達が、少年少女部会の時分でしたけれども、あの時分にですね、信心実習になんか行った時の、んー、作文が残っておるのですよ。大水に浸かったのですけれども、まあ流れずにとってあるんですね。
 それを見てみますと、もうあの時分の少年少女は違うんですよ。もう本当にこの生き生きとした生きた神様を目の当たりに見るように作文を皆が書いてあるのに驚きますんです。

 ね。結局あの時分の信心が荒削りながら確かに、生生しい生き生きとした信心を銘々が持っておったのだという風に思うのですね。ん。それがだんだん形が整うて参りまして、その中身が、形が出来て来たけれども、中身がその、出来ないような事でならん。そこで私は今日はもう今朝の皆さんが頂かれた朝の御理解をですね、まあ、の一部を取ってお話をさせて頂いたのですけれども。ね。もうまず、信心は拝む事からだと。ね、ここには信心の稽古にくるのであって、拝む事の喜び、まあ、子供には無理な話だと思ったのですけれどもね、けれども、十何年前の少年少女部会の方達は確かにもうやはり拝む事から初めておるです。
 そしてあの、子供なりにもですね、あの、御心眼を頂いたりするような子供達も何人もあったことです。久富先生ところの今の仕事をしております望さんだん、その御心眼を頂きよったですもんね。神様に向かうと言う事。ね。けれどもその、形の上での教導がその当時は出来ていなかったということが思うのですけれども、信心の稽古に通うて来る教えを頂くその教えが、家庭生活の上に現せれていくという事。
 教えを行じていくというところから生れてくるところの喜び。神様に向こうて拝むところから生れてくるところからの喜び。いわゆる、和賀心。和らぎの心であり喜びの心でありというようなものがです、ね、車の両輪のように、拝むという事から分からせて頂くと同時に、いー、教えを行じて行くという信心生活が出来るから、あー、生れてくるところの与えられるところの、和賀心と。

 和らぎの心であり喜びの心であり、喜びの心であるという事。いうようなものがです、本当に家庭の中に、見えて来、それをもって子供達にも教えていくという、教導でなからなければならないという事を感じるですね。
★只今、ご神前に出らせて頂きましたら、神の威を、神の威を切る先生にはなってはならないと、寅の威を借るいわば信者になってはならないと。寅の威をかった狐という、イソップ物語かなんかにございますよね。
 寅の威を借っておる、威張っておるというわけなんですね。ここでいうならば、寅の威を借ってとはまあ私は寅年だから、私の事ではないだろうかと思うですね。
 親先生の威を借って威張る。いわゆる、寅の威を借って威張る信者。狐になってはならないと言う事。ならこれは、私自身にも神様はそれをやはり戒め給うのである。神の威を借って徳もないのに徳かぶったり、ね、いわば、いかにも私はそういうのが非常にお道の中にあるのですね。いわば、本当に信者が何にも助からないのにですね、なんか知らんけれども親先生ぶってですね、もう本当に、見とってからなんか嫌な感じですね。あれは不思議です。どんなに、人が助かっておるところの先生がですね、こう、尊大ぶってござるならまあいくらかいいですもんね。
 けれども、信者は助からんのにもう本当に可笑しいような、教会の先生がもう自分は取次者だ、先生だと、金光大神の手代わりだというようにして威張っておられるのは、あれは神の威を借っておられるのだと思うですね。

 私もそこんところを、おー、徳もないのに力もないのに、神の威を借りる、神の威を切るようなことであってはならない。とこうまあ思わせて頂いたのですけれども。ここはもう本当に私を始め皆さんがです、えー、おかげを頂いて、本当にあの少年少女部会、いわば、一人のこれから次の椛目を担うていこうと、立って行く子供達がそうした信心の発足をしたそういうところから、自分達の信心をもう一偏改めてみて、神の威を借りておる先生ではなかろうか、寅の威をかりておる信者ではなかろうかと、ね、どうでも、成る程家のお父さんと、家のお母さんと、ね、成る程椛目の総代さんだ、椛目の幹部の方達だといったようにです、ね、いわゆる実意丁寧な信心がなされていかなければならん。
 今日は私はまだ正式なお届けを頂いておりませんですけれども、おー、今度、ご造営のあの、開票が丁度、委員長が他の用件で丁度見えております、正義さんも来ておられますし、それから、あの総代の永瀬さんも、それから久保山先生でしたか、それから経理の久保山茂さん。
 それだけでしたかね、久保山先生。それと、秋山さん、総代の。であの、開票されました結果が、私もさっき程ちょっと聞いたのです、秋永先生から。
 それにあの、千五百万と(?)ですね。千五百万。もう本当にさすがに椛目だなあと私思うんです。ね。成る程それは千五百万じゃ足りゃしません。足りゃしませんけれどもです、ね、私はそういうその、しかもそれが百何十名かでしょ、とにかく、(?)通知してあるとの。だからまだ来るでしょう。

 ね。それは勿論後から来るのは、まあ、こんかもしれませんです。ね、あれ必ず出さなんならんといった事じゃなかったのですから。けれども、その後に今日ある方達が親子で参って来てから「先生私の方にはね、どうでも、百万おかげを頂きたい」というわけです。とても思いもかけないことなのです。その人は。「先生千五百円づつおかげを頂きましても、二年間掛かります」ち言うわけなんです。それでもう、そげん永くかかる(?)かえってご迷惑なろうけん、まああれには入れるなち、(?)が言いますけん、親先生にだけお届けするという人があったんですよ。
 もう白真剣に取り組んでおるですよ。その代わりおかげで、酒もタバコもぷっつり主人がやめておりますが、もうそげな事いわんで朝昼晩飲みよったげなもん。それけん、晩だけぐらいは少し、飲んでくれんのち、言いたい事あるけれども、もう、このご造営が成就するまでは飲まんぞというてから、ところがです、そうして腹を決めました途端に商売が繁盛していますけん、不思議でございますというとるです。
 ね、とてもその人達が本当に日に千五百円づつ、例えば商売が売れがいいから、お供えをするというのは大変だろうとこう思うのです。
 だからそういう面もやっぱあるのです。入ってないわけなんです。ね、こういうようなものがです、いわば実力であり、いわばあの、次の時代の人たちにもね、ご造営の時にはこういうような、というような、お繰り合わせをあの、一切のことを残しておかなければならないとこう思うのです。

 子供達のために、孫達の為に、次の椛目を担うていく双葉達の為に。ね、為には私達がどうでも、私自身がです、神の威を借りた先生、金光大神のお取次ぎ者をなんと心得ておるかと。いうような先生があるのですよ。なら金光大神のその働きが出来ておるかち、出来ていない。 何かああいう所にちょっと、誤解しやすいところがあるですもんね。ここはもう馬鹿がすわったっちゃ金光大神の働きがありよるとこういうようなことをいうのでございますけれども。
 本当に馬鹿が座れば金光大神の働きがあるのです。これは本当に空しゅう、これを空しゅうしておる人が座れば、確かに金光大神の働きあるのですけれども、その先生の我情我欲いっぱいでの、人がここに座ったとしてみなさい。金光大神の働きだんじゃありません。金光大神の働きがここにあってもそれを逃してしまうような、散漫にしてしまうような働きにしか、結果はならんのですから。そういう証拠が例えば教会は大きな看板が掛かって、大きな教会であってもです、ね、さあ本当の生き生きした働きが何にもあっていない教会が沢山あるという事です。

 これなんかまずまず、私は人のこというだんじゃないですけれども、神の威を借りておる先生だと私は思うですね。ここはまあなんとはなしに神様がです、私は神の威を借りているとは思いませんけれどもです、神様を信じる金光大神を信じると言う事においてはです、ね、だから神様その働きが、椛目では現れておる。おかげになって現れておるという風に思うのです。
 私もだから、神様からこうしてお知らせを頂くくらいですから、ね、神の威をきる先生にでもなっちゃならんぞ、寅の威を借りる信者になっちゃならんぞという今日のお言葉をですね、改めて一つ、お互いの信心の中に、生き生きと頂き直してどこまでも謙虚な信者。
 ね、本当に実力を持った信者。と言うことにならなければならんと思うのでございます。
                           おかげを頂かねばなりません。